プロフィール

挫折の人生の初まり

生まれも育ちも愛知県西部の津島市。
大学へ行きたかったが、母親と高校3年の時の
担任に言われて大学進学をあきらめた。
母親の言うなりに母親の進める会社へ就職した。

会社でいじめ?にあって1年弱で退社。
人生に挫折して数年間、
フラフラと過ごしていた。
その時、旅行で訪れた信州に感動して
”いつか信州に移住しよう”と決心!
20年近く過ぎた39歳の時、いろんなご縁に
支えられて信州にIターンした。

人生の転機

なぜ、信州へIターンすることになったのか・・・。
きっかけは、若い頃にあった。
仕事を辞めてフラフラと遊んでいる時、
高校時代の友達と信州の黒姫高原へ旅行した。

信州の自然や泊まったペンションの雰囲気が
人間関係に疲れた私の心を癒してくれた。
ペンションはアットホームでオーナー家族の
もてなしに感激した。

会社を辞めて暇だったので、ペンションの
繁忙時に手伝って欲しいと言われて
軽い気持ちでOKした。

夏休みの繁忙時、ペンションに住み込んで
朝から晩まで働いた。
労働時間に換算すると12時間とか15時間とか
暇な時には休憩はできるが拘束時間は長い。

1日働いて得られる賃金が1000円!
時給ではなく、日給が1000円!

それでも住み込みで食事付き、出かける場所も
時間も無いため、一ヶ月働けば確実に30000円の
収入になった。

その体験は、今から考えると大きな
転機の一つにだった。

正社員から派遣社員へ。バブル弾ける

いつまでもふらふらしているわけにもいかず、
数年が過ぎた頃、名古屋で一人暮らしを始めて、
会社にも就職した。

いつかは信州へ・・・。

という夢も就職するとあきらめるようになり、
月日は流れた。

バブル時代には、浮かれすぎて
「このままいけば、私は独身で生きていける。
結婚なんてしなくていいや・・・」
などと真面目に思った。

高卒で転職組なので、正社員で働くよりも
派遣社員のほうが、通算のお給料が多いと
気づいて派遣社員へ転職。

その時の時給が忘れもしない1690円。
普通にパソコン入力などをする簡単な事務の時給。

バブル弾けて、不景気という風が世の中に
吹き始めた頃、事務で仕事するには年齢的にも
キツイ30代に突入。

派遣の仕事も若い人がメインになり、
はっきり言って、ろくな仕事が回ってこなく
なった。

ずっと続いていた派遣の仕事が途切れるように
なった。
一人暮らしの身には辛い時期。

派遣の仕事を待っていても、家賃や食費などで
お金はどんどん減っていく。
仕方なくアルバイトを始めてみたけれど、
それで一生食べていかれるとは思えない。

アルバイトをしながら正社員の面接を
いくつも受けたけれど、履歴書だけで落ちる。
運良く面接にこぎつけても、そこで落とされる・・・。

やっと事務で就職できた会社も不景気の
あおりを受けて、事務職の私はリストラ。

再びの人生の転機

二度目の人生の転機がやってきた。

「このまま名古屋でこんな生活を続けるなら、
一か八かで信州へ行ってみよう!」
諦めかけた夢に人生を賭ける決意をした。

信州へ移住するための仕事を探した所、
事務は無理で、看護師や介護職なら
仕事は紹介できると言われたため。
そこから全くの場違いである福祉職を
目指してホームヘルパー2級講座を受講。

資格が取れたところで、特別養護老人ホームへ
就職。
そこで経験を積みながら、信州へ移住する
準備を着々と進めた。

ネットで情報を集め、信州の人と知り合いに
なるように努めた。

信州へ移住した人が集まっている新信州人倶楽部
という団体を知ったのはその時だった。

ネットで空き家を探し、信州へも何度も通った。

家が見つかって、移住が決まりかけた。
退職届を提出し、移住に向けて準備を
していたところ、大どんでん返しが起きた。

家の話が白紙になった。

頭の中は真っ白!
今更、仕事を辞めるのを辞めるわけには
いかない。

切羽詰まった状態になると人間は
能力を発揮することができると思ったのは、
この時だった!

新信州人倶楽部の方が住んでいる所を中心に
市町村宛にメールを送った。

現地を訪れて不動産屋さんにも行った。
不動産屋さんに、はっきり言われた。
仕事が決まっていない人には紹介できない。

いくつかの市町村宛にメールを送ったところ、
ある市町村から、良い返事をもらうことができた。

若者向けの住宅があるので、そこに住むことが
できるとのこと。
そして、その地域には新信州人倶楽部の方が
住んでいたのでラッキー!

トントン拍子に話しは進み、あっという間に
信州へ移住した。

それが2002年5月のこと。

今から思ってもあの時の、自分の周りの
あらゆる出来事が、何かの法則で集まって
私の移住を成し遂げさせたとしか思えない。

私の力だけではない何か不思議な力が
働いて移住が実現した。

その後も、新信州人倶楽部の方や就職した
職場の方、地域の方々に言い表せないようなほど
お世話になった。

移住してすぐにお見合いをして結婚。

ひとりで信州で暮らしていくよりも
家族がいれば安心できる。

結婚して、すぐに息子が生まれたので
仕事は一旦辞めたけれど、保育園に入園したところで、
少しずつ仕事も始めた。

ホームヘルパー2級から始めた介護の仕事。
介護福祉士を取得して、介護支援専門員(ケアマネ)の
資格も取得して、非常勤のケアマネとして
仕事をした。

<3度目の転機か?>
2016年4月、2年半ほど務めたケアマネを辞めた。
何か違うように感じたから・・・。

信州での仕事のために福祉職を選んだ私だが、
そもそものきっかけが、祖父母の死にあった。

認知症で無くなった祖父。
ガンで無くなった祖母。

どちらの最後も、納得ができる最後では
なかったように感じた。

人生の最後を迎える時、そこで振り返った時、
自分の人生に対して、周りの人々に対して、
「ありがとう」と言って最後を迎えられるだろうか・・・。

ケアマネをしていた時に感じた。
高齢になって自分の人生を悔やんでたり、
周りを恨んでいたりする人が多いこと。

介護保険の制度の複雑さ、ケアマネの仕事の
煩雑さ、私がやりたかったことは、祖父母の死で
思ったことは、この仕事では成し遂げられない・・・。

制度の中で制約の中で、人は生きていけない。

ハンドルネーム

ハンドルネームのミゼットは、ブログを
書き始めた頃に使うようになった。
俳優の堤真一さんが好きで、堤さんが
”ALWYAS三丁目の夕日”で
乗っていたミゼットがカッコ良かったので
使うようになった。

ブログを書き始めたのは、息子が保育園へ入園した2006年3月頃。
その時は、まだ無料ブログを使っていた。
その日のブログを読むと、入園式を脱走し本人不在のままの
入園式のことが書いてあり笑える。

ブログタイトル

それまでの私は、一生懸命人生を生きてたが、
いつの頃からか”6割主義”や”ゆるく生きる”が
私のテーマになってきた。

”6割主義”とは、一生懸命は疲れるので、
全体を10割と考えたなら、半分の5割より上の6割を
目指して生きるということ。
10割目指して、一生懸命走り続ける人生には、
「余裕」がありません。
ピンと張り詰めた糸のような緊張感は、
長くは続きません。
ギリギリまで引っ張られた糸は、
少しのきっかけで、プツリと切れます。

少し緩みがあれば、ちょっとやそっとの
緊張があっても、ゆるみがあるため
緩和されて、すぐに切れることがありません。

今までの人生において、理不尽な経験、
自分ではどうすることもできない経験を
体験したからこその現在があります。

昔の私は10割主義。
自分の価値観を周りの人に押しつけていた。

今の私は6割主義。
4割は他人の価値観を受け入れられる。

人それぞれ、生き方、考え方があるので、
私の生き方は、その中のひとつ。

10割主義でぷつりと切れて燃え尽きてしまえば、
ゴールにたどり着くことはできない。

6割主義でも、ゆるやかに続けていけば
いずれはゴールにたどり着くことができる。

私は今後も緩やかに継続してゴールを目指して
行こうと思っている。

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